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カストリ雑記

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母親戦争 part5:葬列

私は生まれて初めて両親に本音を言った。

言えた。

家に着いて、本当に膝から崩れた。

そして、ただただ泣いた。

気持ちがよくて泣いた。

国会図書館に行けばあると思うんですけど、みくに出版から出されている某中学受験情報誌の2001年の2月か3月号で、私、「合格の喜びのあまり号泣してる人」というアレで見開きカラーグラビアで載っているんですけど、あの時くらいの気持ちよさがありました。

カフカの玄関マットを敷いててよかった!

その後、肌荒れした!

私の足裏とは!?



さて、
とりあえず号泣した旨をお伝えしたところで、私はこのことを例に挙げて、今回の件に関して思うところをお伝えしようと思います。

今回の件で、あのことを思い出しました。

「葬式」


「葬式ってなんのためにやるの?」

葬式って何のためにやるんでしょう?ほんと、昔から思っています。
高額なお金を費やして、葬式用のさ、あんまりお持ち帰りしたくないお花を大量に生けたり、「これでもかっ!」ってくらいギラギラした車に乗せたり。弔辞という名の作文を書いたり読んだり。それに、ドレスコードは黒で、これといった新たな出会いもない飲み会の支度をしたり。葬式ってそういうもんですよね。

葬式には、死者を弔うという意義もありますが、「喪ってしまったものを受け入れて、前に進むため」という意義もあります。
「あ、マジで、ガチで、死んだんだ!」
と深く刻み込むための儀式で、遺族は参列者より慌ただしく働くのが葬式あるあるです。慌ただしく働くことは、忘れるためのステップではなく、「いなくてもきちんと、死者と私という狭い世界ではなく、きちんと広い世界でやれてるぞ!」と自分に刻むための作業じゃないでしょうか。

私にとって、今回の一連の行動は「葬式」でした。

親と私の関係性を弔う儀式でした。
「こんなことして、こんなにやって、何になるの?!」
と言われたとしてもいいです。
これは「儀式」でした。
前に進めない自分を弔うために、前に進めない両親を弔うために、restartのためには、盛大に花を生けなければならない。


私は何度も言いますが中卒です。
中卒って、当たり前だけど、卒業式も入学式も謝恩会も部活も委員会もないんです。「大人になるステップを、私は今、同年代の子と踏んでいるんだ」という儀式がない。先生もいない。メンターもいない。
時間を僅かなお金に換えて、限られた自由っぽいものを得るしかなかった。

「自由な生きる」ってことは、「このままではダメかも」と思ったら、儀式は自分で設定しなきゃいけないし、後押ししてくれる先生は自分で見付けなければいけない。
それが、「自由」の裏にある「責任」だと思います。


自分の人生に責任を持つこと。
それは、自分にとって大切にしていたものを手厚く葬ることかもしれません。
「どのような人間になりたいか」
それを見つけるためには、鎖を切らなければいけない時もある。




短いけど、このシリーズは毎回毎回尋常じゃなく消耗するので、今日はこれまで!!